お買い物
DOMESTIC DAYS #2
瞼越しに網膜を刺激する陽の光がくすぐったくて、ボクは目を覚ました。見慣れない天井をぼんやり眺める。胴が窮屈だ。視線を移すと、クロロが胸にしがみついたまま眠り込んでいた。コアラのように脚まで引っ掛けている。
バスローブの下でゆっくりと打つ心臓の音。二人の体温は完全に溶け合っている。そうだ、悠長に恋人の寝顔を見守っている場合では無い。今日は荷解きをしたあと、買い物にも行くつもりなのだ。長い一日が始まろうとしている。
「クロロ、クロロ♣」
「おはよう♦︎」
クロロの肩を揺すぶる。すると、クロロは眉をひそめ、ボクの手を振り払った。
「あと5分……いや、20分寝かせてくれ」
「どこか朝ごはんを食べに行こう♦︎」
「何が食べたい?キミが決めていいよ♣」
「わかった、起きる」
クロロはあっさり身を起こすと、スマートフォンを開き、仕事関係のメールが届いていないか確認しだした。胃が寂しい。「昨日のピザ、ワンサイズ大きいものを注文するべきだったかな♠」と、ふとそう思った。
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
「確かに、モーニングメニューなんて今みたいなタイミングじゃないとお目にかかれないよね♦︎」
年季が入ったファストフード店。胃がもたれるような油の匂いで満ちたイートイン。客はボク達だけ。奥の物音を聞く限り、店員の方が人数が多いようだ。
エッグマフィンにかぶりつくクロロを、ボクは眺めていた。口を使い、食べづらそうにベーコンを引き抜いている。ちらりと覗く白い歯につい意識が集中してしまい、手元のコーヒーに目を移した。ベタつく床を、靴でペタペタ鳴らす。
紙コップの中で揺れる自分の輪郭を見つめる。朝食が済んだら、家に戻ってテーブルや椅子を組み立てる。ベッドをセットする。本棚を買いに行く。……ああ、あとカーテンも見繕わなければならない。ベッドは絶対だ。今夜こそ、ゆっくりクロロとイチャつきたい。
視線をクロロに戻すと、彼は呑気にハッシュドポテトを齧っている。口元にエッグマフィンのソースを付けていたので、ボクはそれを指で拭ってやった。滑らかな皮膚の感触が、指先に残る。これではまるで大きな赤子だ。そう思い、「可愛いね、ベビちゃん♥」と茶化すと、クロロは「やかましい」と一蹴した。
埃を巻き込み、薄汚れた空調の不規則な重低音がボク達の間に降り注いだ。
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
背中を丸め、黙々と本のページを捲るクロロ。陽だまりの中、腰掛けるその姿にボクはスマートフォンのレンズを向けた。撮れた写真を確認し、画面下部のハートマークに触れる。背景のダンボール箱の山さえ無ければ、絵画のような1枚だ。
本の虫は本当に、本当に荷解きを手伝うつもりが無いらしい。どうせなら、もう一度頬にキスして欲しい。クロロを盗み見るも、彼は長いまつ毛を重そうに伏せる一方だった。甘い幻想を捨て、ボクは組み立て説明書を広げた。
「オモチャの家」に相応しい、オモチャみたいなテーブルセット。光沢のあるレッドブラウンは、通販サイトで見た商品写真よりも鮮やかに見える。「クッションは緑色がいい♣」「ランチョンマットはクロロに選ばせようか♦︎」なんて考えながら、ドライバーでネジを締めた。手始めに、椅子を一脚。つるりとした座面を一撫でする。
「おいで、クロロ♣」
「ほら、これに座りなよ♦︎」
椅子を差し出すと、クロロは黙ってぽすりと腰を下ろした。上目を使い、こちらを覗き込んでいる。潤いを持った瞳に見つめられ、ボクはたまらず彼の頬に触れた。その手に頬擦りをするクロロ。開け放った窓から柔らかな風が流れ込む。小鳥のさえずりと、葉ずれの音が耳に入る。
ズボンのポケットが小刻みに振動し、ボクは我に返った。スマートフォンを確認する。ただのスパムメールだ。
「残念、先にベッドを用意するべきだったな」
本を開きながら、クロロは事も無げに言った。ボクは身体の芯が熱くなった。
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
殆どの家具・家電は転居する前に買い揃えていたが、そうでない物もある。それが本棚とカーテンだ。両方とも、百貨店なんかをいくつも回って探し求めたが、ついに納得のいく一品が見つからず今日を迎えてしまったのだ。
以前、ボクはクロロの自宅にお邪魔した事がある。彼の部屋は粗末な本棚が一つあるだけで、そこから溢れ出た本が所狭しと床に積まれている、「家」よりは「巣」と呼んだ方がしっくりくるような有様だった。
辛うじて空いているスペースに据えられたシングルベッドの中で、クロロは「どこにどの本があるのかオレは把握している」と言い張った。彼の胸に顔を埋めながら、ボクは彼の心地よい匂いの正体が紙とインクのそれだったのだと気づく。
クロロにとって、読書はもはや食事も同然だ。ボクが愛する研ぎ澄まされた彼の知性は、あの乱雑に重ねられた本達によって肉付けられている。ボクは恋人のものならば、胃袋の中身まで可愛がりたい男だ。ならば、クロロの糧である本だって……
「信号、赤になってるぞ」
クロロの声に、鼓動が跳ねる。急ぎ気味に車を発進させた。助手席を横目で覗くと、クロロが怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。その奥のサイドガラス越しに、巨大な倉庫のような建物が目に入った。
広大な立体駐車場をゆっくり進み、適当な場所に車を停める。薄暗い車中で分かりにくかったが、始めて訪れるこの北欧家具の店にクロロはワクワクしているようだ。
「ここに来たい」と言い出したのは、クロロだった。ハッシュドポテトを咀嚼しながら、スマートフォンの地図アプリに経路を表示させて熱心にアピールするクロロ。「ちょっと質素すぎやしないかい?」「ボクはもっと良い本棚を買ってやりたいんだけどな♣」とボクは口を尖らせた。
何はともあれ、今日こそは本棚探しの旅に決着をつけたい。ボクが「良い本棚、見つかるといいね?」と半ば願掛けのように声をかけると、クロロは煌々と照らされた入口の方を見て「そうだな」と短く答えた。
自動ドアが開くと、小気味の良い音楽が飛び込んできた。だだっ広いエントランスを、気の向くままに歩く。頭上はるか先に、白い天井照明がてらてらと輝いている。壁広告のスッキリしたゴシックフォントを見て、ボクは「案外悪くないな♣」と独り言を漏らした。
店内を目新しげに見渡していると、謎の青い物体にそそくさと寄り付いているクロロが視界に入った。なんだか落ち着かない様子だ。釣られて歩み寄ると、クロロがこちらを振り向いた。ワゴンにぎっちりと詰め込まれたサメのぬいぐるみを前にして、目を輝かせている。
「大漁だねぇ♦︎」
「ああ、乱獲されている」
クロロはそう呟きながら、一匹を抱き上げた。ぽすぽすと揉んだり、抱きしめてみたりして、その場を動こうとしない。顔を覗き込むと、随分とあどけない表情をしている。大きなぬいぐるみとクロロという組み合わせが無性に微笑ましくて、「買ってあげようか?」とボクは聞いた。クロロは押し黙っていたが、ついにサメを手放すことはなかった。
サメを小脇に抱え満足気なクロロを引き連れ、様々なショールームを巡っていく。リビング。キッチン。ダイニング。ベッドルームに、キッズルーム。展示品の中にはサメやチンパンジーのぬいぐるみが座っている椅子なんかもあり、そういったものを見つける度にクロロは歩みを止め、しげしげと眺めるのだった。
足元で青白く光る矢印。それが示す方向に目をやると、林立したビル群のような無機質なシルエットが目に入った。ボクの足取りは自然と軽くなったが、それはクロロも同じようだった。クロロはボクを追い抜き、木製の白い本棚へ引き寄せられるように接近した。立てかけられている本の一冊を手に取る。が、すぐに戻した。
本の虫が、ダミーブックに引っかかっている!
残念そうに棚板を撫でるクロロを見てボクは思わず吹き出してしまったが、幸い彼には気付かれなかった。「その棚が気に入ったの?」と声をかけると、「そうでもない」と何事もなかったかのようにクロロは答えた。
本棚一つ一つを吟味していくクロロをボクは見ていた。「デザインはいいが、収納力が低いな」「これの色違いがあったらな……もう少し暗い色がいい」とブツブツ言いながら、本棚の群れを縫って歩いている。
ボクがある本棚を指さして「これなんてどう?家の壁の色と合ってると思うけど♦︎」と口を挟むと、「サイズが中途半端だ」「文庫本や新書本を入れるには縦幅が高すぎるし、二段収納するには奥行きが足りない」と顔をしかめ真剣な物言いをする。
しかし、片手にはサメを抱えている。その様子がツボにはまってしまい、それ以降の本棚論はボクの耳に入ってこなかった。
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
「キミのお眼鏡に適った本棚は、いつになったら現れるんだろうね?」
「いい加減な本棚を使うくらいなら、ダンボールのままで結構だ」
「そうは言ってもねぇ……♠」
小ぶりなホットドッグを口にしながら、とぼとぼと歩く。ソーセージの脂が口の中で弾ける。後ろを振り向くと、クロロはしょぼくれた顔をしながらソフトクリームを食んでいた。その哀愁漂う姿に、ボクは「近いうちにまたどこか探しに行こう」となだめる事しかできなかった。オートウォークがボク達を駐車場へと流していく。
運転席につくと同時に、ボクはカーナビを開いた。スマートフォンに表示された住所をポチポチと入力し、次の目的地を定める。どうやら、ここからそれほど遠くないようだ。
車のエンジンをかけながら「クロロ、シートベルト」と隣に念押しする。返事が無い。なんなら人の気配が無い。目をやると、サメがいた。尾びれを折り曲げた形で助手席に座り、シートベルトまで締めている。後部座席に視線を逸らすと、満ち足りた表情のクロロがこちらを見ていた。本棚の事など忘れてしまったらしい。
「キミが良ければ、それで構わないんだけどさ♠」
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
どこを見ても布。一面の布。布。布。布。
「チェックがいいと思ってたけど、ストライプも悪くないね♦︎」
布の森の中から、ボクはある一枚を手に取った。天井から吊り下がったそれを引っ張って広げ、照明にかざす。ブラウンのチョッキに赤のネクタイを締めた柔和な雰囲気のおじいさん店員が、「いかがでしょう?」とニコニコ笑って尋ねてくる。
このカーテン専門店は目付物である。つい昨日、引越し荷物が届くまでの退屈しのぎにSNSを眺めていたら、広告が流れてきたのだ。
古めかしいアーケードの隅にひっそりと佇む店構えの写真と、布の柄と布の柄が争っているような煩雑な店内の写真。ボクは店内の写真をアップにしてまじまじと見つめた。どのカーテンも、量販店では見かけることのない珍しい柄ばかりだった。この店ならば、「オモチャの家」に似つかわしいカーテンが見つかるに違いない……!
ボクはクロロとおままごとのような、遊びのような心持ちで生活を送りたいのだ───
この「おままごとのような生活」には、他の家庭には無い、何か特別で、風変わりな物が必要なのだとボクは考えている。そして、そんな家具や雑貨を探したり、クロロに選ばせる過程もまた遊びの一部なのである。選択肢に溢れたこの店は、きっと最高の遊び場になる。なかなか楽しめそうだ。
「クロロは気になる柄、見つかった?」
ボクは振り向いた。クロロは傍の壁に掛けられているサンプル帳をパラパラと捲りながら、しきりに店の外を気にしているようだった。目をやると、向かいには古書店があった。煤けたレンガの壁に、金の切り文字で店名が綴られている。夥しい数の重ねられた本で窓が塞がれていて、店内の様子は伺えない。
「前時代的な雰囲気の本屋だね♣」
「ああ、ああいう店にお宝が眠っていたりするんだ」
嫌な予感がする。
「お前の好きな柄を選んでくれて構わない」
「向こうの書店に行ってくる」
やっぱり当たった!
古書店を指差し、飄々と言ってのけるクロロ。取り憑かれたようにフラフラと出入り口の方へ吸い込まれていく彼の手を、ボクは急いで掴んだ。
「だーめ♠」
「ボクの部屋じゃなくてボクと貴方の部屋なんだから、貴方の意見も聞かなきゃ♦︎」
クロロの手首を強く握りしめた。ギチチ……と擬音が出てきそうだ。ボクの圧が掛かった笑顔と、痛む手元を交互に見て、彼は「わかった、逃げないから」と降参した。しかし、言葉とは裏腹に恨みがましい瞳でじっとボクを見据える。その鋭い眼光に晒されたボクはついに観念し、「後で一緒にお宝を探しに行こう♦︎」と言葉を足した。
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
魅惑の古書店を前にしたクロロは、きっと適当にカーテンを選んで済ますだろう……とボクは高を括っていた。だが、その見通しはどうやら間違っていたようだ。
「色や柄は二の次、遮光機能の有無が最優先だ」
「そんな拘りがあるのなら、どうしてボクに全て委ねようとしたのかな?」
クロロは遮光機能にうるさい遮光野郎だった。どうやら、本の日焼けを防ぎたいらしい。クロロの熱弁をBGMに、遮光カーテンのコーナーを回ってみる。
グレー、ネイビー、ブラウン、ディープグリーン……どのカーテンも無地だったり、地味なものばかりだ。「なんだかあまり面白くないね♠」とボクが文句を垂れると、クロロは「お前が選べと言ったんだろう」とむくれてみせた。
ボクは「オモチャの家」にぴったりなウィットに富んだものが欲しい。クロロは地味でもいいから遮光機能の付いたものが欲しい。二人の意見は拮抗し続け、結局二種類のカーテンを買うことになった。バチバチと対立するボク達を傍で静かに見守り続けていたおじいさん店員は、この結果に安堵の表情を浮かべた。
遮光カーテンの展示を一巡したクロロは、書斎用のカーテンを即決した。ダークグレーの布地に、幾何学模様のジャガード織りが施されている落ち着いたデザインだ。クロロはサンプルのクロスを指で揉み、凹凸の感触を楽しみながら「理想的だ」と呟いた。
「オモチャの家」の二階にある160平方フィートほどの一室は、クロロの書斎……いわば、新たな巣となる場所だ。一人になりたい時に籠れるよう、簡易ベッドも用意するとクロロは言っていたので、巣よりは要塞と呼んだ方が正しいのかもしれない。
普段は淡々としたクロロも、自分の書斎作りとなるとえらく熱心になる。あちこちの家具屋を駆け回り、「この本棚はダメだ」だとか、「この椅子は座り心地がいい」だとか言って品定めをする姿は、床材をかき集めている巣作りに夢中なハムスターのようだ。近頃のボクは、この巣作り中の活気に満ちたクロロを観察する時間が楽しくて仕方がないのである。
「お前も早く見つけろ、書店が閉まってしまう」
サイズの相談をしに、クロロとおじいさん店員は店の奥へと消えていった。それを見送ると、ボクはため息をひとつ吐いた。魅力的なデザインに囲まれているが、どれかひとつを選ぶとなると難しい。この植物モチーフの青いインド更紗もいいし、あの小鳥の図柄が散りばめられた緑のシルク生地もいい。そっちのオレンジのポップコーン生地も捨てがたい。
腕を組み、片足を揺すりながら考え込む。ボク一人の住処だったら、もっと簡単に決まっていたのだけれど。そこにクロロが加わるとなると、どうにも気合を入れて選びたくなるのだ。クロロと送る生活は、ボクにとってとびきりの贅沢なのだから。
「なんだ、まだ決まっていないのか」
振り向くと、呆れ顔のクロロが目の前に立っていた。背後にはグラフチェック……白地と方眼紙のような細い線で構成された柄のカーテンが掛かっている。ボクは目を見張った。クロロの黒い髪と白い肌、着ているグレーのパーカー。グラフチェックの白とネイビー。モノトーンに統一された視界は、クロロの合理的な性格を可視化したようだった。
このカーテンは、クロロを引き立てる。「オモチャの家」という舞台で、主役を映えさせる優秀な小道具になるだろう。ボクはなんだか嬉しくなって、距離を取ったり縮めたりしてクロロとカーテンを見比べた。うんうんと頷くボクを見て、クロロは不思議そうに首を傾げた。
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
「本棚もまだ買ってないのに……♠」
「まさかここまで掘り出し物があるとは……オレも意外だったよ」
「あのお金の使いっぷり……キミ、もしかして収入を全て本に使ってるのかい?」
カーテンは無事に注文完了。一週間後には家に届くようなので、ひとまず一段落だ。ボク達はおじいさん店員に見送られ店を出たあと、向かいの古書店に入った。ボクには分からない世界だったので、そこからの記憶は曖昧だ。クロロが「え?初版なのか、これ?」「発禁されてたやつじゃないか!」と大はしゃぎしていて、それが可愛かったことだけは覚えている。
明かりの灯ったアーケードを歩く。人の影はまばらで、精肉店や青果店はもう閉まっている。ずっしりと本が詰め込まれた紙袋を両手に下げ、クロロはほくそ笑む。 嗚呼。カーテンを選ぶ時間より、書店で過ごす時間の方が長かった気がする。
「ヒソカ、鼻が痒い。かいてくれ」
クロロが目を閉じ、顔を突き出した。カタルシスを欲していたボクは、クロロの顎を持ち上げる。ほんの短い間だけ、キスをした。柔らかくて少し乾燥したクロロの唇の感触。顔を離すと、クロロは渋い顔をしていた。ボクは笑いながら彼の鼻先を指でかき、荷物を片方持ってやる。
オレンジ色に光る街灯がボクらを見下ろす。どこからか、美味しそうな匂いが漂ってくる。
「今晩はここで店を探して食べようか♦︎」
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
塗装の剥げかけた、立て付けの悪い木製ドアをぐんと引くと、カランカランとベルが鳴った。ステンドグラスの照明が放つ、柔らかい光。モザイクタイルの床に、葉模様の壁紙。クリーム色のテーブルと、赤いソファ。部屋の隅にある埃の被ったモンステラ。絵に描いたような純喫茶だ。
テーブルを拭いていた初老の男性がこちらに顔を向け、「いらっしゃい!」と声を上げる。気前の良いおっちゃん店主……といった風格だ。ボクは指を二本立てて人数を伝えつつ、店内を見回した。店主と近い歳の客がちらほら、食事を取ったり、コーヒーを片手に新聞を読んだりしている。雰囲気を見るに、皆常連客のようだ。
「穴場だね、ここは♦︎」
「書店といい……レベルが高いな、このアーケード」
クロロとコソコソ話しつつ、案内された席に着く。壁際のソファと椅子が向かい合った席だったので、ボクはいつものようにクロロにソファ席を譲ってやった。クロロはそれが当たり前のように、どっかりとソファに座る。出会ったばかりの頃は、ソファ席を譲られる度に「オレはお前のレディじゃない」と切り捨てていたのに。ボクは「甘やかしすぎたかな♠」と心中で呟き、苦笑した。
メニューブックを開くと、張り付いていたラミネートがペリペリと鳴った。フードのページが目に入る。ナポリタン、オムライス、サンドイッチ。定番の料理名が並ぶ。どれも写真は載っていない。クロロが「デザートはどうだ?デザートが見たい」と横から口を出す。
「ボクはナポリタンにしようかな♦︎」
「オレはプリンアラモード……とハンバーグドリア」
「じゃあボクはパフェを付けるよ♣」
手を挙げて店主を呼ぶ。店の奥の厨房から「はいはーい!」と声が聞こえ、バタバタと店主が向かってくる。そこで、事件は起きた。
「はい!旦那、何にしましょう?」
「ボクはナポリタンとフルーツパフェで、パフェは食後でお願いします♣」
「かしこまりました!兄ちゃんはどうします?」
「……!?」
「……ハンバーグドリアとプリンアラモード。プリンアラモードも食後で」
「ああ……あとコーヒー2つ、デザートと一緒に♦︎」
「はい、以上ですね!ごゆっくりどうぞ!」
バタバタと店主が去って行く。クロロは瞬きを忘れ、顔を強ばらせていた。ボクをじーっと見つめながら、おぼつかない手つきで自分の頬を撫でる。
「旦那、兄ちゃん、旦那、兄ちゃん……」
「オレとお前、そんなに年の差ないだろう……?」
ボクはそれまで我慢して口をもごもごさせていたが、ついに声を出して笑ってしまった。落ち着いたジャズピアノが流れる店内に、ボクの声が目立つ。
「お前が老けて見えるだけだ、旦那様が」
「旦那様……その呼び方、いいね♥」
「今晩もそう呼んでほしいな、お兄ちゃん♥」
「黙れ」
♥ ♠︎ ♦︎ ♣
「美味しかったね、あの店♦︎」
「今度は昼にゆっくり寛ぎに行きたいな♣」
「味は良かったよ、味は」
「……お前のご自慢のスポーツカー、夜だと見つけづらい」
「そう言うなって、キミだって車を買うなら黒を選ぶだろう?」
アーケードを抜けた先、薄暗い駐車場へ向かう。クロロはまだまだへそを曲げており、ボクの車に八つ当たりをする。まあ、確かに見つけづらい。ボコボコしたアスファルトをゆっくり歩き、夜闇に溶け込んだ愛車にようやく辿り着く。
クロロをエスコートすべく、助手席の扉を開けた。シートベルトを締めたサメが、我が物顔で鎮座していた。忘れていた。
静止しているボクを横に、クロロは冷ややかな顔をして後部座席の扉を開く。本が入った紙袋を席に置くと、無言で中身を漁り出した。ボクは「車で読んだら酔っちゃうよ♠」と軽くたしなめ、運転席に乗り込む。車を発進させると、低く唸るエンジン音と、ゴソゴソと本を物色する音が重なった。
「スキンを買うのを忘れていたよ♠」
「コンビニ寄るけど、欲しいものはあるかい?」
しばらく車を走らせたあと、信号待ちの間にボクは後ろを振り向いた。クロロは開いた本を膝に置いたまま、扉にもたれかかって眠っていた。俯いた横顔から伸びた黒いまつ毛が、外の照明灯の光を反射させて白く輝いている。
小さく寝息を立てている口元に、視線が吸い寄せられる。グツグツと煮立つような煩悶。助手席だったら、触れられたのに。
カーナビが無機質な声で渋滞情報を伝えた。慌てて前を向く。その瞬間、信号が青になった。ボクは通りにコンビニがないか目で探しながら車を進めた。