お引越し

昼間に届くはずだった引越し荷物は、夜になってようやく到着。「道選びを誤った」と繰り返し、ペコペコ頭を下げ続ける引越し業者の人たちをボクは適当にねぎらい、見送った。

ダンボール箱しかない新居の部屋に、ボクの声が響く。

クロロは本が収められている箱をいくつか開き、中を覗いてはまた別の箱に手を伸ばしている。落ち着かないらしい。ボクはちょこちょこと動き回る彼の背中をじっと見つめた。

運び込まれた荷物の内訳は、食器などの日用品が二割、ボクの服や私物が二割、クロロの蔵書が六割。ほとんどが本だ。彼は、箱の海からお気に入りを探し出そうと奮闘しているらしい。

ボクは靴底が床を鳴らさぬようゆっくりと歩み寄り、クロロの肩に触れた。

「キミもお腹が空いただろう?」

再び声を掛ける。すると、彼はボクに一瞥もくれないで

「……ピザか、ならばオレはマルゲリータが食べたい」
「車にワインを置いてきただろう、取ってきてくれ」

と呟いた。ボクは「OK♥」と応え、彼の肩を軽く撫でる。クロロは手を払いのけるでもなく、ただ黙ってそれを受け入れた。

玄関をくぐり、外に出る。いくつもの不動産屋を回り、ようやく見つけた住居を見上げる。勾配の急な緑の三角屋根に、メレンゲみたいに真っ白な壁をした二階建ての邸宅。まるでオモチャのようだ。

最初にこの家を見たクロロは「おままごとでもするのか?」と軽口を叩いていた。全くもってその通りだった。ボクはクロロとおままごとのような、遊びのような心持ちで生活を送りたいのだ。

♥ ♠︎ ♦︎ ♣

ボクはクロロに首ったけだ。磨き抜かれた知性。態度に似合わない豊かな情操。少し影のある瞳。その全てに色香を含ませていて、ボクを唆らせる。

出会ったばかりの頃、ボクはクロロに嫌われていると勘違いしていた。話しかけてもツンとして本を読み続けているし、「そうか」「ああ」と受け答えも短かったからだ。

しかし、食事や映画に誘うと「行ってもいい」と言い、ついてきてくれる。そして、決まって帰り際には楽しい気持ちを押し隠すような、何とも言えない顔をして去っていくのだ。いじらしくて仕方がない。

彼の一挙手一投足を眺め続けたいという欲求に駆られ、ボクは同棲を持ちかけた。誰に気兼ねする必要もない、伸び伸びとした環境でクロロを味わいたいと望んだのだ。

しとしとと雨の降る昼下がり、喫茶店の窓際の席で「キミと一緒に暮らしたい♦︎」と切り出すと、クロロは表情を変えず「構わない」と答えた。

♥ ♠︎ ♦︎ ♣

ふと玄関脇に視線を移すと、イチョウの木が黄金色に染まっていることに気づいた。内見で来た頃はまだ青かったのにな、と感慨にふける。

どうやらボクは、思った以上に浮かれているようだ。クロロと過ごす、四季折々の情景を想像してしまったのだ。

自分の気の早さに苦笑しながら、指先で車のキーを弄る。静寂な郊外に建つオモチャの家と、それを取り巻く夜闇にカチャカチャと金属音がこだまする。

傍に停めておいた車の中を覗くと、後部座席に無造作に放られた紙袋が目に留まった。ここへ来る道中で寄った、ワインショップのロゴが印刷された紙袋だ。

ボクは車に背中を預け、スマートフォンを開いた。先ほど見かけたピザ屋の店名を検索する。どうやらネットで注文できるようだ。マルゲリータピザをカートに入れ、見慣れない住所を入力していく。注文完了の画面を確認し、車のドアを開いた。

♥ ♠︎ ♦︎ ♣

ワインボトルが入った紙袋を抱えて部屋に戻ると、クロロは本漁りを終わらせていた。床に座り込み、本格的に読書を始めている。傍には彼が骨董市で買ったという、傘に蜘蛛の巣の刺繍が施されたテーブルランプが灯されていた。

ボクはクロロにゾッコンだ。

しかし、クロロについて知っている事柄は、驚くほど少ない。翻訳の仕事に就いていること。友達がたくさんいること。甘いものが好物であること。そしてビブリオマニア、いわゆる「本の虫」であること。知っていることと言えば、それくらい。

このような場面に対峙すると、ボクは無性にクロロのことを「本の虫」と呼びたくなる。本の虫は、どうやら荷解きを手伝う気が無いようだ。

この変わった虫をいつまでも眺めていたかったが、そうもしていられない。ボクはスラックスのポケットから錆びかけたカッターナイフを取り出し、「食器」と乱雑な字で書かれているダンボール箱を切り開く。中身を探り、グラスを二つ引っ張り出した。

服の袖でグラスの表面を磨いていると、チャイムが鳴った。届いた箱からは空腹を加速させる香ばしい匂いが漂っている。持って部屋に戻ると、本の虫がガバと頭を上げた。つかつかとこちらへ近寄ってくる。

「早く食べよう、冷める前に」

瞳を輝かせたクロロが、急かしてくる。おやつを前にした猫のような反応だ。虫になったり猫になったり忙しい人だ……と思うと、自然と口元が緩んだ。

同棲初日の晩餐は、随分と質素なものになった。ボクはグラスにワインを注ぎ、クロロがピザの箱を開く。準備はそれだけだった。二人肩を並べて床に座る。

「乾杯♦︎」
「……乾杯」

テーブルランプの暖かな光がさす部屋に、チンとガラス同士のぶつかる音が静かに鳴った。

このワインは、料理の最中など普段から飲んでいる安物より、よほど値の張る代物だ。クロロが意気揚々とチョイスした銘柄だった。しかし、香りを確かめ口に含んだ彼は唇を真一文字に引き結び、眉をひそめた。

ボクもグラスを揺らしながらゆっくり口にする。率直に言って、濡れた雑巾。濡れた雑巾の味がした。あまりの不味さに、ボクは肩を震わせて笑ってしまった。「随分と美味しいワインだね?」そうからかうと、クロロは床を見つめながら「黙れ」と唸った。

♥ ♠︎ ♦︎ ♣

ピザの箱が空になり、あとは不味いワインだけが残った。片手にワイングラスを、もう片方の手の指でフローリングの木目をなぞるクロロ。伏せ目がちに座る彼の横には、本が数冊積まれていた。

「そんなに本を引っ張り出して……ボクに荷ほどき全部押し付けてサボるつもり?」
「…………」
「無言の肯定♠」

ボクはわざとムッとした表情を作った。すると、クロロはおもむろに身を寄せて、ボクの頬に唇を落とした。

鼓膜をくすぐる控えめなリップ音に、ボクの身体はつい反応してしまう。それを見たクロロは、面白そうに顔を歪めた。

やはり、クロロという男はとことんボクを見下している。その都度その都度、欺こうとしてくるのだ。嗚呼。おかしくて、可愛らしくてたまらない。

こうやってキスされた時、ボクは決まって「キミの腹はわかっているけれど、折角だから騙されてあげるよ♥」と心の内で笑いながら丸め込まれたフリをする。

これがボク達の繋がりであり、『プレイ』なのである。

クロロはボクの思考ロジックを理解した上でボクを欺き、動かし続ける。ボクはそれに納得した上で、喜んで手のひらで転がされる。入れ子式のこの関係は、結局どちらが上手なのだろう?

「仕方がないな♠」
「けど、今日はもう遅いから明日から取り掛かるとするよ♣」

いつものように、ボクは観念してみせた。正直、今すぐベッドに行ってクロロとイチャイチャしたい気分だった。

そこで、気づいてしまう。ベッドが無い。二階の寝室には、前の日に新調したベッドフレームとマットレスが運び込まれている。しかし、本当にそれだけなのだ。シーツや布団、枕などが無い。この箱の海の中から見つけ出さなければならない。

「床で寝るのも、また一興なのかもな?」

視線を落としたまま、クロロが囁いた。

ボクは退廃的な夜に思いを馳せた。が、すぐ我に戻る。硬い床の上でクロロを抱いたら、彼の白い肌に擦り傷を作ってしまうではないか。

「とんでもない、ボクを紳士でいさせてくれよ♠」

ボクはそうおどけてみせると、スマートフォンの地図アプリを開き、近くにある宿を探し始めた。

♥ ♠︎ ♦︎ ♣

そのモーテルは、新居から車を走らせて20分ほどの場所にあった。部屋の窓から見える景色は草木が少しと、暗闇だけ。

ボクはベッドに腰掛け、「こんな機会じゃなかったら、絶対に来ないな♠」と呟いた。シャワーの音が狭い部屋に鳴り響く。ボクは、瞼を閉じて水の滴る音に聞き入った。

いくらか時間が経ち、音が止む。向こうの扉からバスローブ姿のクロロがひょいと顔を出し、パタパタとこちらへ向かってきた。ボクの座っているベッドへ仰向けにダイブする。

湿度を感じ、目をやるとクロロの髪はじっとり濡れていた。ボクは棚からタオルを取り出し、黙って彼の頭を拭いてやった。

「ドライヤーをかけておくんだよ♣」とだけ言い残し、ボクもシャワールームに入る。クロロが使ったシャンプーの匂いが、一面に漂っている。湿り気と混ざり、際立ったその匂いを胸いっぱいに吸い込む。

シャワーを浴びれば晴れると思っていた悶々とした気分は、強くなる一方だ。

タオルで髪を拭きつつシャワールームから上がると、丸く膨らんだ布団が目に入った。近づいて見ると、布団にくるまった恋人が寝息をたてている。髪は濡れたままだった。

息を飲む。

このままでは、折角の綺麗な髪が傷んでしまう。

伸ばしかけた手を制する。

しばらくすると、クロロはゆっくり目を開いた。視線が合う。少しの間。彼はふにゃりと微笑み、布団を捲って一緒に眠るよう促してきた。

これもボクを騙しているうちに入るのだろうか、なんて考えながらそろそろと布団に潜る。すると、クロロは大胆にも抱きついてきた。また寝息が聞こえる。

クロロの体温がボクの身体に移っていく。寝込みを襲うほど、ボクは落ちぶれていない。

平静を保つため、ボクは明日の荷解きのイメージトレーニングを始めた。

「一刻も早く、明日にでも本棚を買いに出掛けなければならないな♦︎」

そう口の中で呟くと、クロロの身体に腕を回した。